ほほの日記

理系京大生。文科系学問にも興味があります。

【初投稿】この日記の説明

このページを開いたそこのあなた!ありがとう!

インターネットは情報過多だ。ブログなんて始めても、わざわざ読んでくれる人はあまりいないだろう。でも、TwitterInstagramも使いこなせなかったわたしにも、日記ブログなら書けそうな気がする。書きたい。表現したい。

そういうわけで、日記ブログを始める。このウェブページをブックマークしてくれたなら、それはそれはうれしいことだ。

わたしを直接知らない人のために自己紹介もしておく。

  • ID:taille

IDのtailleは、フランス語で”大きさ”とか”身長”とかいう意味なんだけど、特に意味はない。世の中には意味があることと無いことがあるのだ……。

  • 名前:ほほ
  • 社会属性:理系大学生
  • 趣味:通販サイトで好みの商品を眺めること。漫画を読むこと。
  • 好きなこと:体勢を変えながら生活すること。レパートリーは、イスの上にあぐらをかいて座る、普通にイスに座る、ソファに座る、ソファで寝転ぶ、床に座る、床で普通に立つ、片足立ちする、ラジオ体操的なことしながら他のことする、などなど。
  • 苦手なもの:床面積は広いのに天井が低い部屋。
  • 特技:エレキギターをある程度弾くことができる。

 以上。

ブログを始めるにあたって、一人称に悩んだんだけど、圧倒的に”わたし”がよかった。”俺”は似合わないし、”オレ”も似合わない。”ぼく”は普通で間違いないけれども、ピンとこなかった。その他珍しい一人称もあるけれど、シンプル・イズ・ベストだし除外。その上で、”わたし”のカッコよさは異常だ。謙虚で丁寧で日本の文化に合致していて尚且つ、高貴な自信が感じられる。まじでカッコいい。というわけで、一人称は”わたし”でいく!

 

*自信のある記事

taille.hatenablog.com

 

わたしの幸福論<第二章>

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前回の記事で序章を書いたが、そろそろ書く気になったので第二章を書いていこうと思う。序章を読んでいない読者はそちらからどうそ。

 

taille.hatenablog.com

以降の第二章の内容は第三章以降を想定したものとなっている。一応、区切りとして相応のオチはつけたが、これで終わりではない。

動物としての人間

人間らしさ

人間の性質

まとめ

以上の4つのテーマが全体の流れである。まず、動物としての人間から見ていこう。例えば人間の情緒は交感神経・副交感神経に大きく影響されたり、性欲はテストステロンによって起こるものであったり、やる気のアップにはドーパミンが役立ったりと、人間は動物的に生きている。そこでそれらの性質をまず知りたいと思う。橘玲さんの『女と男 なぜわかりあえないのか』は、進化論のほうの分野の学術論文・書籍計47冊の内容を、筋道立てて一つの書籍として編集されたものである。橘玲さんの主観でまとめられているとは言っても、データもあるそうだしある程度信用していい内容かな、と思うので紹介する。

まずそもそも、この本のタイトルからわかるように本書の趣旨は女と男の違いについて論じていくことであるが、「女」と言ってもいろんな人がいるし、「男」も同じくそうである。ならば、男女の違いについて着目する意義はあるのか。その点について本書では次のように書かれている。まず、生得的な性差の研究結果として、男女の遺伝的なちがいよりも、男集団や女集団の遺伝的なばらつきの方が大きいという事実は存在する。そして、「男らしさ、女らしさは文化的・社会的につくられた」と主張する人々が現れた。この立場は社会構築主義と呼ばれる。橘玲さんの見解としては、社会的な影響を受けていることを否定するわけではないものの、数々の項目で性差のちがいの傾向は一貫しており、それが累積して、私たちが当たり前に受け入れている「男らしさ」「女らしさ」になっている、ということだ。

また、「男女平等」の世の中では、「男と女は同じでなければならない」とされている。これは一般に「政治的正しさ(Political Correctness)」と呼ばれている。これについての橘玲さんの見解は、「男と女は生物的にちがっているが、平等の権利を持っている」ということだ。

さて、内容へ入っていこう。クリスチャン・ラダーの『ビッグデータの残酷な現実』により、女性が魅力的だと思う男性の年齢、男性が魅力的だと思う女性の年齢が「見える化」された。これは学術的にもきわめて正確だと評価されている婚活サイトのビッグデータらしい。婚活サイトを使う20~50歳の男女が対象である。これによると、女性が魅力的だと思うのは、20~29歳の女性は数歳ほど年上の男性、32~歳の女性は数歳ほど年下の男性だった。つまり、自分の年齢と同じくらいかやや異なる年齢の人が恋愛対象ということだ。対して、20~50歳(男性の集合そのもの)の男性が魅力的と思うのは20~24歳の女性だった。50歳のオジサンの恋愛対象は、最も多かったのは22歳の女性なのだ。ここに「男女の非対称性」がみられる。

「現代の進化論」は男女間の欲望のちがいを「ヒトの脳が、長い進化の過程のなかでそのように”設計”されたからだ」と説明する。多くの研究者が半世紀以上にわたって膨大なエビデンスを積み上げており、現時点でこれを上回る説得力を持つ「科学」は存在しない。

すべての生き物が後世により多くの遺伝子を残すよう「設計」されてきたとするならば、その目的は「生存」ではなく「生殖」だ。大過なく生涯を終えたとしても、生殖に失敗すればそこで遺伝子は途絶えてしまう。

オスがより多くの子どもをつくろうとすれば、限られた資源をメス全員に均等に分配するようなことはしないだろう。それより妊娠可能な一部のメスに集中的に資源を投入したほうがずっと有利だ。

このようにして、すべての女性を年齢にかかわらず平等に扱う「リベラル」な遺伝子は淘汰され、若い女性を極端に好む「差別的」な遺伝子だけが残った。

「進化」の長い影は、恋愛やセックスだけでなく、私たちの人生のあらゆる場面に及んでいる。

ここまでで本書の第一章の内容(の要約)になっているのであるが、次の第二章から第三十二章までは、科学の研究によってわかっている男女の性質についていろいろな角度で紹介されている。全部を紹介することなど不可能であるが、こんな感じの内容になっているよ~っていうのを簡単に紹介すると、「実験によって明らかにされた男女のセックスへの認識の違い」「ゲイとレズビアンのデータからわかる男女の性戦略の違い」「女は特に身体の興奮と精神の興奮がかけ離れている」「昼夜大量のテストステロンにさらされる男」「月経周期の”大嵐”にある女」「ベータとアルファからアルファを選びたがる女」「オーガズムと愛の関係」「女と男のリスク戦略の違い」「男女の協調性の違い」「外見がすべてか」「WHR0.7」などである。

いろいろ簡単に紹介したが、この二章以降の内容は、様々なデータから推測される結論として、要するに次のことを述べている。

社会の発展の速度に対して、身体の進化は遥かに遅い。よって、現在のわたしたちの身体は、弱肉強食な自然の中で生物の目的である生存と生殖を果たすのに最適化した身体なのだ。逆に言えば、生存と生殖を果たせなかった種から淘汰されていった。そして、その「最適化」の結果、男は「競争する性」となり強すぎる性欲に苦しむようになり、女は「選択する性」となり強すぎる共感力に苦しむようになった。男は生殖のために、(精子をつくるコストがきわめて低いので)出会った女と片っ端からセックスするのが最適だし、それを阻むほかの男を蹴落とし、男社会のヒエラルキーをひたすら上っていくことが唯一の戦略になる。女は子どもを産み育てるコストがきわめて大きいので、誰の子どもを産み、誰といっしょに育てるかを慎重に計算しなくてはならない。それと同時に、最大の脅威である「男の暴力」からいかにして身を守るかも考えなくてはならない。このようにして、生理の周期によって男の好みが変わったり、身体的に興奮しても脳は性的快感を感じないなどの複雑なシステムが進化した。

長くなったが、ここら辺で本書の紹介は終えようかと思う。主に性愛の観点から人間の動物的側面をみる試みであったのだが、人間の動物的な生の意味が生存と生殖である以上、性愛の観点ほど大きな視野はないだろうし、この分野の内容を紹介して正解だったかな、と思う。というのも、前回の記事、「わたしの幸福論<序章>」で動物的性質に着目することの必要性を感じたし、また、これから述べる「人間らしさ」につながってくるからだ。動物的側面の議論は自由意志の存在議論につながっていくが、現時点でわたしが述べたいこととはつながりがないのでそちらの話は置いておくことにする。では、「人間らしさ」について考えていこう。

ここでは岡潔の『春宵十話』に着目していく。岡潔とは日本の明治から昭和を生きた数学者であり、この本は日本の教育の見直しを求めて彼が書いたものであるが、この記事では彼が言う「情緒」を中心に取り上げる。岡潔は西洋への留学中、考古学者であった中谷治宇次郎と出会い、彼と親友になる。岡潔にとって中谷治宇次郎は唯一にして最大の理解者であった。そして留学中彼は、当時特に難しいとされていた数学の多変数関数の分野の証明を人生の目標とすることを決意した。そんな中、悲劇が起こる。親友である中谷治宇次郎の死である。唯一であり最大の理解者でもあった中谷治宇次郎を失った彼は、行き場のないおもいを数学にぶつけるしかなかった。精神的に不安定であった彼は民事事件を起こし、大学教員を辞めて、山に籠って数学に没頭するようになった。生活は貧しく、世間からは奇人や変人と言われたが、中谷宇吉郎や妻の支えもあって生活をしていた。そして数十年後、彼の多変数関数の分野で発表した論文が世界を驚かせ、彼は世界的に有名な数学者となった。文化勲章も与えられた。そんな彼が、日本の教育の現状を嘆いて書いたのがこの春宵十話である。

彼は言う。「数学とは、生命の燃焼である。」と。数学に限らず、すべての学問に通ずるのは、情緒なのだ。学問は人がするものであり、人こそ学問の中心となるべきだ。人間は動物であるが、人間性を忘れてはならない。(ここで彼は、教育を批判する。「動物性」を育てる教育、すなわち動物的な生存本能や闘争本能に偏った教育はダメだと言っている。)夕焼けをみて、「ああ、なんかいいなあ」と思える人間の情緒こそ人間性そのものであり、教育ではじっくり人間性を熟すようにするべきだ。情緒の調和が崩れると、人間の心が腐敗し、社会も文化も悪い方向へ行ってしまう。そのため、人は純粋直観を鍛え、善行を繰り返さなくてはならない。純粋直観とは、「少しも打算の入らない行為」の際に働くもので、繊細で美しい日本的情緒に不可欠である。曰はく、人間の道義とは人の悲しみがわかることであり、つまり悲しんでいる人見たら、その悲しみが自分の悲しみとしてとらえることができることを言う。現代人は、「個人の幸福」を目的としてしまっている。そうではなく、古来よりある、人をおもう心を身につけなくてはならないのだと。

『夜と霧』の著者ヴィクトール・E・フランクルは、オーストリア精神科医、心理学者である。彼は1905年にウィーンに生まれ、ウィーン大学在学中よりアドラーフロイトに師事し、精神医学を学んだ。ウィーンの精神病院で精神科医として勤めていたが、ユダヤ人だったので強制収容所に収容されてしまう。彼は、テレージエンシュタット、アウシュビッツ、テュルクハイムの収容所を転々としながら、2年半ほどの間収容所で強制労働をさせられていた。『夜と霧』は、この過酷な強制収容所での体験を元に著されている。

強制収容所の生活は過酷なもので、食べ物も十分に与えられず、睡眠もままならず、しかし働かされ、働けないとみなされれば殺されてしまう、という極限状態であった。この極限状態の中で、人の精神状態は段階を経て変化していった。命の選別を経て収容された人々は、当初怖いとか苦しいとか、不安定な精神状態にあるのだが、それが長引くと、今度は何も感じなくなるという新たな状態へと移る。つまり、自分の生きている世界に対して、無感動、無関心、無感覚になってしまう。自分の家族や仲間が殴られていても、ただ眺めているだけで何も思わなくなる。これをフランクルは、生命維持のための防御機構であったと語る。生命維持に必死なため、生命維持に直接関係ない心がシャットアウトしてしまう。そして食べる、寝るといった原始的な欲求に支配されるようになった。そんな中、彼を生かし続けたのは、彼の中にあった妻との思い出であった。フランクルは奇妙な体験をする。フランクルの目の前に妻が現れ、そして言葉を交わしあったのだ。妻との思い出が唯一の希望であった。実際には彼の妻は別の強制収容所に連れていかれて、殺されていたのであるが、そのことを知らない彼には関係がなかった。彼のそばには妻がいた。その時彼は気づいた。愛こそ人間にとって最高のものである、と。また、彼は強制収容所で最も辛かったのは終わりが見えないことだと言う。極限状態。一度でも気を緩めてしまえば殺されてしまう。そんな極限状態は、人々に無限にも思えるほど時間の長さを感じさせた。「明日こそ解放されるかもしれない」、そんあ希望を持っては、絶望し、それを繰り返した。そんな苦しみを耐え抜くには、生き抜く意義が必要であった。自分の生きる意味ってなんなんだろう?そう問うのは、実は正しい態度ではない。むしろ、私たちが人生から、どう生きるのかと期待されているのだ。人生からの問いを「行動」で答える。この、自分に課せされた使命に対し、責任感を持って全うすることが人生の意義である。どんな苦しみであっても、それは人生から課せられた運命なのだから、苦しみの中にいるときはそこに運命を見出し、苦しみを背負い、担わなければならない。ただしその苦しみを乗り越えた先に唯一無二の業績があるのだ。この思想こそ、極限状態を生き抜くための唯一の思想であった。また、彼は言う。この先の未来に、自分を待つ存在を意識することだ。未来の妻でも家族でも、友人でも、最高の趣味でもいい。自分を期待して待っている人・モノが、存在すると考えると、人は責任感を持ち、人生をあきらめてしまうことは絶対にない。だから今この瞬間を乗り越えるのだ。

フランクルの思想は極限状態において人間を生かしてくれた思想であり、人間とはなにかを考える上で非常に興味深い。また、『それでも人生にイエスと言う』を書いている彼は、さすが生に対して絶対的な肯定の立場を取っているのがわかる。

さて、話は変わるが、エーリヒ・ゼーリヒマン・フロムは、ドイツの社会心理学精神分析、哲学の研究者である。彼は、フランクフルト大学の精神分析研究所の講師であったが、ナチスが政権を握ったため、ユダヤ人であった彼はアメリカに亡命した。そして1941年、『自由からの逃走』を発表する。これはファシズムの勃興を心理学的に分析したものである。この『自由からの逃走』の内容を追っていく。

第一次世界大戦は、自由を獲得しようとする人々の戦いであった。それなのに、終戦し、間もなく登場したファシズムに、民衆は自らの自由を放棄して支持するようになった。この理由を説明するために、中世までさかのぼる。中世ヨーロッパでは、人々は規則と義務に縛られていた。つまり、封建社会であった。貴族の使用人は一生貴族の使用人であったし、使用人の子どもも普通は使用人の身分であった。こうした社会は、個人的自由がなかったものの、社会的秩序の中で各々が役割を果たすことで安定感や帰属意識があった。共同体が面倒を見てくれる、という意識があったのだ。しかし時代は変わる。貿易の活性化などにより、貴族でない人も金を持つようになると、人々は自由や個人を意識するようになった。人間中心の文化を再生しようとするルネサンスの時代である。他人との関係が希薄になり、安定感を失った社会で人々は名誉を欲しがるようになた。封建社会のように、帰属意識を伴う社会が終焉したことで、人々は自分が生きる意味がわからなくなり、自分が何者かわからなくなり、無性に他人からの承認を求めるようになったのだ。しかし、この承認欲求を解消できたのは、富と力に満ちた一部の上流階級の人々だけであった。そんな中現れたのが、ルターとカルヴァンである。人間とは生来悪いものであるので、自我を滅却し神に救済を求めよ、と説くルターも、神の定めた予定を私たち人間は知ることができないけれども、ただ私たちは服従するしかない、神への奉仕をするしかないと説くカルヴァンも、結局は人々に無力さの自覚と神への絶対服従を説いた点で共通していた。これらの思想は中流階級の人々にも浸透していった。近代の資本主義では、個人の幸福ではなく組織の発展や財産を増やすことが目的とされ、人々は経済の歯車と化した。この社会は、カネのために能動的で責任感の強い個人を生み出したけれども、その歯車は絶えず無力感、孤独感、恐怖に駆られていた。それらの感情を、人々はどうにか財産・名声・権力や家族を持つことで癒そうとしたのだ。ただ、それはその場しのぎのものに過ぎなかった。時を重ねると、さらに個人主義化が進んでいった。こうした社会における人間の心理を、フロムは次のように分析した。まず、権威主義である。これは欠乏を埋めるために自分以外の何かと自分自身を融合させようという心理的傾向を指し、権威に従って行動したがるマゾヒズム、自らが権威者となり他人を支配したがるサディズムはこれにあたる。両者とも、自分以外の何かとつながりをもって孤独を癒し、安心感を求める点で共通している。次に、破壊性である。これは対象を壊すことで苦しみから逃れようとする傾向のことで、自分より経済的・社会的に優れている友人がいなくなってほしい、とか思う心理はこれにあたる。自分なんていなくていいじゃないか、とマイナスの心理が自分へ向いて自分で自分を殺めてしまわないようにしているわけだ。そして最後は、機械的画一性である。これは自分が自分であることを辞め、自分の思考を放棄し自分を世間のみんなと溶け込ませることで孤独感や不安感を感じないようにする心理のことである。これらの心理傾向からわかるように、現代社会において人々はアイデンティティを失い、権威に容易く服従する人形のような存在になってしまったのだ。そしてファシズムはその受け皿となった。無力な個人よりも強力な組織の中に身を投じ、その偉大さと栄光の一員であることを誇りにして生きろと説くファシズムは、容易く人々に受け入れられてしまったのだ。

こうしてファシズムを説明したフロムは、以下のことを人々に求めた。自発的な活動によって自分と世界とを結びつけるということだ。これは思考や感情を自発的に表現する創造的な活動のことである。例えばこの記事を書いているわたしの活動は創造的だと言えそうである。しかし、もっと大事なことがある。それは、人を愛するという能動的な活動のことである。フロムは別の著作『愛するということ』で愛するということについて論じている。

ここからは『愛するということ』の内容である。まず、現代人は、自分自身がもっと魅力的になったり、経済的・社会的に成長したり、自分を磨くことが愛されるための前提条件だと考えている節がある。愛されるのは、愛してくれる人との出会い、つまり運に左右されるものなのだ、という考えもある。しかし、フロムはこれを否定する。現代人は、愛を誤解しているのだ。では、フロムの言う愛とは一体どのようなものなのか。

愛とは、”愛する”という能動的な営為は、「与える」ことにある。これは無条件に相手に金銭的援助をするということではない。自分の感情や興味関心、知識、ユーモア、自分のすべて、すなわち自分の中に息づく大切ないのちを「与える」ということだ。愛することで自分も相手も満たされた気持ちになる。しかし、与えれば損をするのではないか…と不安になり愛する勇気が持てない人は大勢いる。愛するためには、成熟した人格と自立した精神が必要なのだ。さもないと、愛のかたちはいくらでも歪んでしまう。「わたしはこんなにあなたのことを愛しているのに!」とか訴えてしまう。そういう愛は誤解された愛だ。そうならないために、真実の愛を獲得するために、フロムは愛するという技術習得のための条件を挙げている。それを解説する前に、愛とは何か、ここで一度確認しておこう。愛とは4つの要素から成る。「配慮」、「責任」、「尊重」、「知ろうとする態度」である。それらをバランスよく成立されることが愛するということであり、そのために人間として成熟していることが必要なのだ。愛とは人がどう関わるかを決定する態度のことであり、正確の一つの方向性である。そのため、一人の人間をほんとうに愛するということは、その人とともに生きている世界とそこで暮らすすべての人々とそのいのちをすべて愛するという博愛のことである。また、すべての愛の根底にあるのは、自分以外の人の人生をよりよいものにしたいという願いであり、すなわち友愛である。自分にとって何にも利益をもたらさない、無力な人、貧しい人、よそ者をも愛せるかが肝心なのだ。例えば母性愛を例に出すと、親(とくに母親←ヒトのつくりから)は幼少期に子どもを愛するが、成長期にその愛が真のものであるかがわかる。というのも、子どもを自分の所有物のように認識し、自分のために愛するというナルシズム的態度をとっていては偽りの愛ということになるのだ。真の母性愛とは、巣立つことを悲しみながらも、それを望み、後押しすることができることなのだ。

さてここまでの『愛するということ』の紹介を読んで、「そんなの綺麗事ではないか」と思う読者もいるかもしれないが、フロムも実現困難であることを承知の上で書いている。それだけ愛するというのは、困難な道なのだ。困難な道であるが、アイデンティティを失った、権威に容易く服従する人形のような存在になってしまわないためにも、人間は愛する道を歩んでいかなけ一笑に付すればならない。フロムはこう言っているのだ。綺麗事だと一笑に付すのではなく、まず私たちは精神を成熟することを目指さなくてはならない。

愛するということは、生きているすべてのいのちを愛するということであると先に書いたが、これには当然自分自身も対象となる。ここで、フロムは利己心と自己愛が全く異なるものであることを強調する。エゴの根底にあるのは自己愛ではない。利己的な人間は目に余るが、彼らは自分を愛することができないが故に利己的なのだとフロムは説く。利己的な彼らは自分を愛せないので、常に不幸に苛まれている。この利己的というのは、人が商品化してしまった現代においては大きな問題なのだ。自分の時間やエネルギーを使うことをまるで投資のように考え、ロボットのように生きている。社会は彼らに、消費という楽しい行為を鎮痛剤として与えている。すなわりフロムは、愛の喪失を社会問題だと捉えているのだ。

では愛するためには私たちはどうすればよいのか。そのためには4つの条件がある。「外側」からではなく、自分の意志として定めた自分との約束を守れるという自制心。一つの物事に取り組むための集中。成果を焦らず地道に前に進んでいく忍耐。そして、習得したい技術に対する生涯すべて捧げてもいいと思うほどの強い関心である。これらは、管理され、マルチタスクを要求され、スピードを求められる社会では身につけられないものだから、私たちは意識的に身につけていかねばならない。では、どうしたらこれらの条件を満たせるようになるのだろうか。フロムは以下の4つの特質が必要だと言う。それは「客観力」「敏感さ」「信念」「能動性」である。「私にとってうれしいことは相手にとってもうれしいことだ」というようなナルシズム傾向を持っていては客観力は当然身につかない。理性で捉える必要があるのだ。「敏感さ」というのは、自分自身を客観的に眺めて内省するために必要である。私たちは、これらの特質を身につけることから始めていかなければならない。

さて、ここで『愛するということ』の紹介を終え、この記事をまとめていこうと思う。人間とは動物性を持ち、DNAやホルモンに操られて生きている。動物的闘争本能を煽られる教育によってわたしたちは古来からの繊細で美しい日本的情緒を見失ってしまっている。極限状態での唯一の希望は、絶望的な苦しみの中でそれでも生きる意味とは、自分を期待して待ってくれている存在であったそうだ。それなのに現代人は、自分自身をも資本と捉え、孤独な経済の歯車として生きている。誰かがいつか自分を愛してくれると信じている。フロムの言うように、個人化の進んだ社会の”自由”の前で人間はどう生きるのかわからなくなってしまったのかもしれない。ただ、わたしは財産・名声・権力で自分を慰めながらロボットのように生きたくはない。わたしがほんとうに願うのは、わたしが自分自身の生に満足しながら生きることであるが、ロボットのように生きて満足できるとは到底思えない。そこでわたしが人生で最も大切にしたいと思うのは、情緒である。人の悲しみを自分の悲しみと捉える道義センスを磨いた先に、わたし個人の生への満足を目指した先に、個人の幸福を超えたなにかがある気がする。そしてこれはフロムの言う愛するということとかなり近いものではないか。情緒と愛を喪失した現代に、再びそれらを取り戻す。わたしはそんな生き方が”正しい”のではないかと感じるようになった。安藤忠雄さんは世界的な建築家であり、偉大な方である。彼は以前インタビューで、人はどう生きるべきかという問いに対してこう語った。「たくさんお金を稼いで、それを社会のために使うことだ。」とのこと。それはまさにフロムの言う愛ではないか。

ここで第二章を終わらせたいと思う。いくつかの話を紹介したが、その内容を貫くわたしの思想を書けたと思う。冒頭でも書いたけれど、これで幸福論は終わりではなく、第三章以降を続けていこうかなと現時点では考えている。今後ともお付き合い願いたい。わたしは更新頻度がとても低い。また読んで下さる方は「読者になる」をしてもらえると嬉しいです。今回の記事は長かったと思いますが最後まで読んで下さりありがとうございました。

わたしの幸福論<序論>

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以前の記事で、現代社会に蔓延している”前進主義”について、書いている。

 

taille.hatenablog.com

こういう社会に生きているのだから、普通に考えれば、わたしたちは”前進”を目指して生きるべきだ。最近は、「頑張らない生き方」という生き方も認められつつあるように感じる。いや、もっと正確に言うと、”前進”を志向しない生き方のことだ。「日本一有名なニート」として有名なphaさんの生き方は、それを体現している。(わたしは少なからず影響を受けていて尊敬している。)(phaさんのブログリンクを貼っておく。)

phaの日記

(*phaさんの名前を出したがこの記事とphaさんは関係ないので注意)

ニーチェは、安楽を求める人間を「畜群」と呼び、奴隷道徳から逃れて自分の考えで自分の人生を生きようとする人間を「高尚な人間」と呼び区別している。そして、「弱者」は往々にして自らのために「奴隷道徳」によって「強者」の足を引っ張ろうとする。ニーチェはこれを非難した。

さて、前置きはここまでにして本題に入りたいと思う。わたしは建築学科の学生であって、大体今後の生き方は以下の4パターンほど想定できる。

①大学院に進学する。

②学部を卒業したら建築業界に就職する。

③学部を卒業したら文系就職する。

④失踪する。

最近、世界的に活躍している建築家についての知識を少しずつ得ている。自分の名前が建築業界で有名になる人は、大体決まって大学院を修士で卒業し、設計事務所に数年間務めたあと、自分で設計事務所を起業する、というコースを辿る。

最近、妄想をする。わたしは40歳になった。わたしは8年ほど前に開いた自分の設計事務所で多忙な日々を送り、努力の末、今では業界に広く認知され、認められている。朝、目が覚めた。頭が重い。なんとか起き上がって、えーと、えーと、とぼんやりしている。あ~、今日やることはコンペ案を仕上げることと、顧客のAさんの邸宅の模型を作ること、Bプロジェクトの会議が13時からあって、現在施工中の現場を見に行っておかねば……。世界的建築家なので、スケジュールは分刻みである。

こういう妄想を”夢見る”というのだろうか。わたしはこうした妄想のあと、途端にむなしくなる。どうしてむなしくなるのか、わからない。だけど、どうしようもなく違和感というようなものが存在するのだ。

幸福な人生を望んでいると思う。だから、わたしは模索している。過去に、わたしは幸福についてまとめたことがある(自分の頭の中で)。マズローの5段階欲求を参考に、それを改良して作った仮説だ。

「幸福条件」と「不幸要因」を以下のように定義する。

「幸福条件」≔その条件をよく満たしているほど幸福である、という指標。

「不幸要因」≔その条件を満たしていることが幸福の前提で、不足している場合、不幸を感じる指標。

その上で、人間には以下の3つの「幸福条件」と1つの「不幸要因」があるとした。

㋐善実現幸福条件

㋑優越性幸福条件

㋒友結性幸福条件

㋓生理的欲求の半永久的な余裕の不足に関する不幸要因

さて、簡単に解説していく。㋐は、当人がその社会の中で善とされていることを実現したときに感じる幸福のことについてまとめた指標だ。以前の記事、「現代社会に蔓延している”前進主義”と幸福」では、実はこれについて触れていた。現代社会は、資本主義であって、資本主義の本質は”前進”だから、わたしたちも内在化した”前進”=幸福という価値体系を有している、というのだ。しかしこれはいついかなる時代にも適応できるのもではなく、例えば中世ヨーロッパ社会など、現代の科学技術によって否定された「神」の存在がまだ信じられていたころ、「神」の善悪に従うことを内面化していたわけで、「神」が質素倹約に生きろ、というなら庶民は疑いなく質素倹約に生き、それを幸福としただろう(たぶん)。

あれっ、と思った読者もいるかもしれない。「神」は現代にもいるじゃないか、と。もちろん現代でも有神論者はいくらでもいるわけで、わたしが無神論者というわけでもない。ただ、現代の有神論者のいう<神>と、科学技術が発達する前の「神」は同質でない。「神」は現代にはいない。そういうニュアンスで捉えてほしい。

㋑は、要するに、他者をマウンティングしたら得られる幸福感のことである。進化論の観点から考えてみれば当たり前のことで、自分の遺伝子を残したいものだから、自分が他者より優れていればいいわけだ。

㋒は、人間関係に関する幸福を一般にまとめた条件である。

㋓は、長ったらしい要因であるが、それにも理由がある。まず、わたしたちは食べないと生きていけないし、睡眠をとらないと生きていけない。これは疑う余地がない。そのため人間の身体には、食欲、睡眠欲がインプットされている。(……と書いたがこれは厳密でないかもしれない。食べる必要があるから食欲があるわけではなく、食べる必要性と食欲は表裏一体な関係にあるのかもしれない。睡眠についても同様。)兎に角、食欲、睡眠欲を満たす必要があるわけだ。

「快」「不快」という概念がある。これらの概念を「幸福」「不幸」と混同している文脈もいくつか読んだことがある。わたしは、これらの概念を「幸福」「不幸」とは区別している。「幸福」「不幸」は状態であるが、「快」「不快」は一時的なものだ。わかりやすく例えると、「快」「不快」は一つもパラメータで表せるようなもので、日経平均株価のようなものだ。急激に上がったり、下がったり、また小刻みに振動しながら大きく動かなかったり、そんなものだ。対して、「幸福」「不幸」は状態なので、数学的なイメージでは連続で微分可能なグラフのようなものだ。変化が急激でも、グラフが折れ曲がることはない。あくまでなだらかに、連続的に変化するのだ。

マズローの5段階欲求の一番根幹の欲求である「生理的欲求」は、「幸福」「不幸」の次元ではなく、「快」「不快」の次元で計るのが適当であるとわたしは考えた。おなかが減っているときにご飯を食べられたら幸せだし、疲れたらぐっすりベットで寝たい。よって、生理的欲求を満たすことは幸福の条件に含まれそうである。

しかし、幸福条件として生理的欲求の充足を挙げることには問題がある。わたしたちは、貧困国の人々の食事を食べることができるだろうか。

Dollar Street - photos as data to kill country stereotypes

こちらのサイトから、世界の貧困国の食事の写真を見ることができる。(Googleは富裕国のためのサービスであるから、Google検索はこういうときは頼りにならない。)

この、イモ類を粉末にしただけのような食事で、わたしたちは満足できるだろうか、いや、できない。逆に、普段から高級フルコースしか食べていない富裕層が、賞味期限ぎりぎりのコンビニのおにぎりで満足できるだろうか、うや、できない(たぶん)。

このように、わたしたちは、自分自身の生活レベル慣れていると、そのレベルより下がったときに不幸を感じる。ごはんを食べることにより得られる快は一時的なものに過ぎず、ご飯を食べることが当たり前になると、ご飯を食べること自体を幸福とは感じない。ゆえに、生理的欲求については幸福条件とするよりかはむしろ不幸要因とするのが適当なのだ。

さらに、この生理的欲求を満たすことに関しては、明日も、明後日も、十分に充足できるであろうという余裕がなくてはならない。この余裕が欠如していると、それは不幸だ。そういうあれこれがあって、生理的欲求の半永久的な余裕の不足に関する不幸要因となったわけだ。わたしとこの部分を詳しく議論したければコメントをしてほしい。

さて、このように㋐~㋓によって、人間の幸福というのは一応の説明がつく、というより、幸福を分類できる、とわたしは以前考えたのだった。

わたしが思うに、形而上学の観点からよりよく生きる道を探るのも面白そうではあるが、人間は動物の一種で知的生物なのだから、理性だけでなく動物的本能(ひいては動物的限界)を持ち合わせているのは当然で、動物としてのわたしたちを知ることが、わたしたちの幸福につながるのではないか。

例えば、半出生主義という考え方がある。このブログをよく読んでくださっている読者は、この言葉をブログ内で何度か見たことがあるかもしれない(笑)。わたしは6月ごろにこの概念にであって、非常に大きな影響を受けた。

半出生主義とは、出生を悪とする考え方のことだ。理屈は、こうだ。誰もが人生で苦しみに出会って生きている。中には、苦悩に出会っても生まれてきてよかったと思う人がいるかもしれないが、逆に、(不条理な社会に直面して、)生まれたことを悲観する人がいるのだ。人は、自ら生を望んで生まれてくるわけではない。それなのに、生まれたくなかったという人間を産み出す出生という営為は、悪だ。

こういうようなことである。一応言っておくが、わたしは半出生主義者ではない。

この主義にわたしが絶大な影響を受けたことの要因として、理性的にこの主義を否定することが難しい、ということが挙げられる。理性的に思考した場合、この主義は理にかなっているようで、言い返せないのだ。

この主義を否定することができないのだとしたら、わたしたちは出生を禁止すべきなのか。わたしたちは生まれてくる子供たちが人生の中で出会う数々の苦悩を代わりに背負ってあげることができないから、出生を禁止しないといけないのだろうか。

ここまで読んで、多くの読者が、「それは違う」とお考えになっているのではないだろうか。半出生主義を否定できないとしても、子どもを産みたい!と思う人は多かろう。それはなぜか。

理屈では説明しにくい、出生の是非。わたしは、ここに人間の本質に近いものがあるように感じる。「人生には、数々の苦悩や困難がつきものなのだから、子どもを産むということ、すなわち、新たな人間を産み出すということは、新たな苦悩や困難を生み出すということなのですよ。」と言われれば、反論できない。かといって、「出生は悪か?」と問われれば、そうでもない気がする。動物でもあるわたしたち人間を正確に捉える上で、出生というのは不可欠なキーワードではなかろうか。

出生は人間のエゴイズムなのだ、と言われればそれまでのような感じもする。ただし、それが人間なのだ、と捉えることができる。こうして正確に人間を分析することで、一歩上の次元から半出生主義についてなど考えることができそうではないか。

わたしは、日々自分が動物であることを自覚する。睡眠時間が足りていなかったら眠いし、そうでもないのに眠い日もある。ご飯を食べると眠くなる。こうした、覚醒レベルが落ちる出来事に日々直面したときに、いくら人間=知的存在を自称しても、動物の枠組みから逃れられているわけではないのだ。このブログを書いているのは21時ごろであるが、眠くてぼーっとする。あと、この前機会があってレントゲンを撮ってもらった。私の頭蓋骨が映った。動物であった。博物館とか図鑑とかで見る頭蓋骨。あれがわたしなのだ。

先ほど述べた㋐~㋓の幸福論も、進化論の側面から説明することもできるだろう。文字数が多くなりすぎるのでここでの説明は省くが。

わたしが大学生らしくわたしの将来を考えるために、すなわちわたしが幸福な人生を模索するために、わたしは幸福について考える。幸福について考えるために、動物としてのわたしが動物として得たがる幸福と、知的存在であるわたしが理性的に考える合理性を知る。その先にあるものが、わたしの幸福だと信じている。

こういうことを考えるために、わたしは今後疑問に思ったことについて自分のために思索を深めていく試みをしていく。例えば、最近は性愛について、疑問である。異性愛者の場合を考えると、恋人とは何か、わからない。親友とはどう違うのか?違うのは、性的対象として見ているか、そうでないか、ということなのだろうか。この疑問について解決するために最近は性愛についての本を読んでいる。

さて、ここら辺でいったんこの内容をしめたいと思う。いつもより長い記事になったようだが、ここまで読んで下さった読者のみなさま、本当にありがとう!10月以降は更新頻度を落とすと以前申し上げたが、今後も更新がまちまちになると思うので末永く見守っていただけるとありがたい。(ちなみに「読者になる」と更新通知が来るので便利です。)

夏休みもそろそろ終わりだね

最近は、大学から後期の授業連絡メールがよく来るようになった。授業の開始の匂いがしていやなのだが、そろそろわたしも夏休みが終わることを認識しなくてはならない。できるかどうかは別にして。

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